死者と生者のモノトーンな語らい
MONO『相対的浮世絵』
2004/12/19(日) フォルテホール
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■相対的浮世絵を見て(本間様)
現実の社会生活で悩んでいる諸問題を、あの世から現世に遊びに来ている二人が解決する。この解決に一時は喜んだものの、現実はそれ程甘くは無かった。
現世とあの世、正に相対的な空間の中で、台詞の言い回しが「名古屋弁」にも似ている。一方で花魁言葉を思わせる自分の事を「わち」と呼ぶ等、浮世絵的な言葉遊びが面白かった。
あの世からもう一人、2年前に交通事故で死んだ淳「土田英生」がいる。先に来た二人の見張り役である。作者自身が「地」で行っているとも思われるコミックな役柄は、この劇を一層楽しくさせてくれた。
表向きは喜劇として書かれているが、人間の深層心理を追求した演劇としても、十分見応えのある劇である。作・演出の土田英生は純粋に喜劇として書いたであろう。自らも出演して一層楽しい演劇に仕上げていた。
どの役者の台詞もはっきりと聞こえていた事は、特筆すべき事である。衣装(家路快将)は、見せ場が少ない中、高校生の夏服姿(開襟シャツ)は懐かしく感じた。音響(堂岡俊弘)は、最後の場面で流れていたが、途中にもコミカルな音楽を流しても良かったのではないだろうか。
笑いの中にも寂しさを感じてホールを出た。そこには飾ってあるクリスマスツリーが目に入り、ここにも現実と虚構の世界があった。 |
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■MONO 「相対的浮世絵」(平井様)
自分の行為を正当化しつつも、心のどこかにトゲのように刺さった後悔の念、それを、自分の行為を正直に認めることによって浄化される癒しの作品だった。
20年前自分の過失のため部室で火災を起こした岬智朗(金替康博)と同級生の関守(奥村泰彦)の元に、その火災で死んだ東山大介(水沼健)と岬の弟達朗(尾方宣久)が表れる。うらんじゃいないと繰り返す大介と達朗、あの時逃げたんじゃなくて助けを呼びに行ったんだと主張する関。
戯曲は非常に上手く構成されていて、火事の時遊んでいた、立つと言って座る、座ると言って立つ、動くと言って止まり、止まると言って動く、と言う遊びから、「俺は悪くない」と言い張る関の言葉、「恨んじゃいないよ」と言う大介、達朗まで、反語の遊びが二重、三重に全体を包み込み面白かった。
舞台は、戯曲の特徴であろう緊張感と弛緩の繰り返えしが上手く盛り上がらず、役者の世界と言うよりも、戯曲が前面に出た物のように感じた。
役者は、大介と達朗の監視役の野村淳を演じた土田英生がテンポ良く良かった、舞台全体を自分の世界で包んでしまう力は流石プロと感じさせた。
西田聖、浜村修司、川上明子のセットは、数十本の短長の木の棒を舞台前面に乱立させたもので、墓場の不気味な雰囲気を上手く出していた。吉本有輝子の照明は、あまり変化無く、もっと木の棒の影などを上手く利用すればもっとセットが生きたのではないだろうか。衣装は、もっと鮮やかと言うか特徴がハッキリした方が良かったのではないかと思う。体操着や学生の服装があまり印象深くなかったのが残念である。音響(堂岡俊弘)は、余り綺麗でない所が2〜3ヵ所あった。 |
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■死者と生者のモノトーンな語らい(阿部様)
何人かが憩えるほどの、小さな板張りの広場。取り囲むようにベンチが置かれ、低い木の塀に沿った細道が、そこへと通じる。ほの暗い闇の中、周囲に林立するのは……、無数の卒塔婆。そう、ここは墓地なのだ。
この場に集うのは、五人の男たち。うち四人は十五年前の高校時代、卓球部でともに過ごした仲間。しかし当時、不注意から起きた部室の火事で二人は死者となり、今十五年ぶりで、生き残った二人と対面している。
死者二人には生者にただしたいことがある。あの火事の時その場を離れたのは、本当に助けようとしてのことなのか、それとも逃げ出したのか。
もちろん生者には、それぞれに助けようとして、という理由はある。そしてその後の時間の中で、ひとりは高校教師、もうひとりは会社員となった。しかしふたりは今ともに、ただならぬ問題を抱えている。しかもそれが、ともに発覚しかけている。
久方ぶりに出会った死者は心やさしく、死者ならではの行動力を発揮して、生者の危機を救おう画策する。五人めの存在、ふたりの監視役としての死者とかかわりながら。
やすやすと回避されたかに見えた危機的状況も、それは明らかに死者の越権行為。このままでは死者は、生者はともにはいられない。死者は懇願する。一緒にいたいのだ、と。だが生者は、十五年前の行動を正当化し、死者など存在しない、とまで言い切る。
しかし……。生者は自らの意志で現実を受け入れ、汚名とともに職を失い負債を背負う。
死者たちは、当然のことのように去り、真昼の墓地にとり残された生者は、今までになかったほど空の青さを感じ、友を失った悲しさを深々と感じる。二十年前には罪悪感ばかりで、悲しさを感じるゆとりさえなかったのに……。
作・演出の土田英生が描き出す世界は、あくまでも抑制的で、禁欲的ですらある。死者たちは、激しい感情を表わすこと自体が禁じられ、監視役の死者の饒舌は、つねにさえぎられる。そして生者がこの墓地の広場から見る現実は、危機的な情況にあってもなお、遠くの何か非現実的な出来事のようによそよそしい。それはまさに穏やかな無彩色(モノトーン)のうねり。白木作りの装置(西田聖)と白々とした照明(吉本有輝子)が、それを一層際立たせる。どことなく不気味で不安な、静かな意識下の世界を思わせる。
ともすれば観念的に、単調になりかねないこの死者と生者の対話は、中部地方のどこかの方言で語られ、高校当時のユーモラスなパフォーマンスが時折登場することで、リアルなものになっている。 |
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