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まるでF1グランプリを見ているよう・・・
PROJECT熱+唐津匠『阿修羅城の瞳』

2005年11月6日(日)  クリエート浜松

■『阿修羅城の瞳』を観て(平松様)
 まるでF1グランプリを見ているよう・・・。これが11月6日18時よりクリエート浜松で行われたプロジェクト熱(ルア)+唐津匠の公演「阿修羅城の瞳」の第一印象だ。阿修羅城の瞳、と言えば関西を拠点に活躍する劇団☆新感線の代表作。今年の春には映画化もされたのでご存じの方も多いと思う。

 本家では派手な立ち回り、豪華なセット(映画の場合CGも)などとかくスケールの大きさが話題となるこの作品をプロジェクト熱+唐津匠がどうドライブするのか非常に注目の公演であった。

 まず、会場に入って最初に目についたのは舞台装置。紅色に染められた柵が幾重にも連なっており、和物&時代物の臨場感を見る前から盛り上げてくれる。次に目についたのは吊られている照明機材の数。比較的狭い舞台にひしめき合うように灯体が吊されている。これから我々をどんな幻想世界に誘ってくれるのか、さらに期待が高まった。

 そして開演。明るくなって気付いたのだが舞台にかなり奥行きがある。舞台幅と同じかそれ以上ではないだろうか。日本の公共ホールは歌舞伎や能の影響からか横長に作られている場合がほとんど。こういった指向はクリエート浜松ならではと言えるだろう。さらに後ろから差し込む光が柵の隙間を縫って鮮やかに地面へとのび、いっそう情感をもり立てている。

 と、ここまで書いて肝心の芝居の内容はと言うと・・・、あと少し、もう少しで・・・と言うのが正直な感想だ。舞台は生ものであり、その一瞬々々にお客は固唾を飲むわけだが、ときおり呼吸が合わずにスッと我に返ってしまうときがあった。音響や照明にしてもバシッと決まらないときがあり、見ていて逐一「もったいないなぁ」と思えてしまった。

 冒頭にも書いたがF1でいうならマシンはあるがドライバーもクルーもまだその性能を引き出せ切れていない…、そんな印象だ。逆に言えば人の層が厚くなれば幾らでも上位入賞、表彰台、そして優勝と駆け上がれそうな潜在能力の高さを感じた。今後に期待したい劇団である。
■『阿修羅城の瞳』を観て(阿部様)
 時は文化文政、所は大江戸、佃の戻橋。跋扈する鬼を調伏するために組織された特務機関、鬼御門(おにみかど)の長、第十三代安倍晴明は、鬼たちと遭遇したあげく、あっけなく切り殺されてしまう。こともあろうに晴明の配下、安倍邪空によって。
 こんな意外な光景で始まる、『阿修羅城の瞳』は中島かずきの作。劇団☆新感線が再々上演し、映画化され、それがCSテレビで放映もされている。

 多彩な広がりを見せるこの物語の背骨は、かつて鬼御門で鬼殺しと恐れられた病葉出門(わくらばいずも)と、5年前に出門があやめた年端も行かない女の子の、転生した果ての女、つばき。出門は今や、芝居の狂言作家、四世鶴屋南北一座の役者。あの時以来、鬼御門は去った。女は<闇のつばき>と耳目を集める義賊。でも5年より前の記憶がない。そんなふたりがひょんなことから出会い、強く惹かれあう。

 女はしかし鬼の王、阿修羅へとさらに転生せねばならない運命にある。男もまた、鬼御門となって阿修羅を斬らねばならぬさだめ。鬼と人との激しい戦いのはて、天空に浮かぶさかしまの城、阿修羅城の王となった女と、女を斬るべき男は結ばれて……。でもそれは、阿修羅の死に他ならず……。鬼と人との激戦は、一夜の夢のごとくにおさまり、またひとりとなった出門。その目に映るのは、赤子を抱いたつばきの姿。
 戦う鬼と人とはいえ、人の中にも鬼は生きる。自らの力を誇示して晴明を切った邪空は鬼とともに出門と戦い、ひたすら面白い芝居を書きたい南北は、魂を鬼に売りわたし……。鬼とは、人の中にある欲望の別名か。そしてこの物語自体、南北の妄想の産物なのか。物語は、豊な広がりと深さを持って展開する。

 よくできた舞台である。役者の身体性が優れている。斬り合いなど、激しいアクションシーンがふんだんに盛り込まれて楽しませる(演出:唐津匠)。そのアクションに重なる音響(小川陽子他)も、空を切るや刃、ぶつかり合う刃など生々しく、緊張感はいっそう高まる。振袖にブーツをはくような、和洋折衷の不思議な衣装(中西祥子)も悪くない。そして人と鬼との結界を意味するような、スライドする格子戸を連ねた装置(橋本恭成他)。その向こうは白い鬼の世界、こちらは赤い人の世界。シンプルな中にメッセージがひそむ。

 去年の公演で気になった、動きが激しくなると、にわかに声が聞き取りにくくなる、セリフの問題は大いに改善された。まだ途上の人はいるが、多くの役者の声がしっかりと発せられていることは、喜ばしい。
 やはり気になるのは、一見矛盾するようだが、物語の平板さである。劇団☆新感線2000年版の公演(DVD)で見る限り、物語は鬼と人との相克に、より重点が置かれている。唐津の脚色は微妙に異なって、大きなさだめの中で動かされるコマとしての人と、その縁の物語となっている。

 焦点が移ることによって、オリジナルで強調された、つばきの阿修羅への転生の場面や、愛しつつも殺しあう阿修羅と出門の再会の、濃厚な愛と死の場面は、若干意味合いを変えつつさらりと描かれている。となると、脚本は全体的にもっと整理されてよいのではないか。例えば、鬼殺しの剣を打つ刀鍛冶の抜刀斎とのやりとりなどは。そして最後の、赤子を抱くつばきの姿は、もっとはっきりと姿を現わしてよいはず。
 光の当て方が異なった分、わかりにくく感じられることは、やはり残念。とはいえ、2時間半近を飽きることなく舞台に惹きつける力量は、確かなもの。唐津とPROJECT熱は、合同で新劇団の旗揚げを計画中とのことだが、今後の活動が大いに俟たれる。
■『阿修羅城の瞳』を観て(本間様)
 喜劇である。人間の深層心理を現実と架空の世界に見事に演じ分けられていた。時は江戸時代、場所は江戸の武家屋敷付近。日夜出没する鬼、妖怪を取り締まる「鬼御門」と、そうはさせまいとする美惨「梶浦京子」を首領とする「鬼グループ」。それぞれに助っ人「橋本恭成、山名克俊」がいて、互いに剣を取り、妖術を使って激しい攻防を繰り広げる。こうした世相を劇作家の四世鶴屋南北「森歩」が劇中に座の一員と一緒に表れる。彼は自らの作品として肉付けをして行く。つぱき「中西祥子」と言う妙齢な女性を登場させる。彼女が二人の助っ人を手玉にとって話を展開し、その絡みがこの劇を一層盛り上げて行く。

 現代音楽「唐津匠」をBGに使い、テンポの速い演出「唐津匠」は、2時間の演劇を飽きる事無く見せていた。この手法は賞賛に値する。音響「小川陽子・浜田敏夫」は、殺陣の場面で役者との呼吸が合わず、演技者と共に苦労をしていた。生の演劇の難しいところであろう。照明「唐津匠計画・安部ちひろ・長田利子操作」は、場面転換に忠実にできたことは、動きが早いだけに大変だったと思う。舞台装置「唐津匠」は、朱色の縦格子の枠を塀に見立てて、武家屋敷の雰囲気が良く出ていた。大道具「橋本恭成他」は、十五夜を思わせる真丸な月、橋の手摺りが、現世と鬼の世界との境界線を表すのに有効だった。

 残念な事は、稽古不足を感じさせる台詞の忘れやトチリが目だった。演者の出るタイミングが合わず、舞台上で間が持てない姿を見るのは苦痛であった。テンポが遠く喜劇であるので一層強く感じられた。私が観たのは午後の部だったが、夜の部ではこうした事は解消されていたことであろう。キャストで注目したのは脇役の二人である。笑死「少女」役の望月れみと、桜姫を演じた大田夏子。共に出番も台詞も多くは無かったが、笑死役の望月は、妖怪の少女を妖しく演じていた。桜姫役の大田も、姫らしい大人しい演技が、場面転換では活発でチャーミングな演技を、上手く演じ分けていて好感が持てた。脇役の上手さが、この劇を一段と盛り上げ成功させた良い例であろう。
 開場、開演が二十分も遅れ、当然終演時間も遅くなった。主催者の運営の再考を強く求める。


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