頭上には今日も“岩”がとどまって
PROJECT熱+唐津匠『LIVING IN FEAR』
2004/11/13(土) クリエート浜松
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■PROJECT熱+唐津匠「LIVING IN FEAR」感想(平井様)
お話は、隕石群に襲われ荒廃した地球、その上巨大な隕石が天空に浮かび、いつ落ちてくるか判らない恐怖の中で、大多数の人々を犠牲にしても一部の人々だけでも救おうとするトウマ大佐と一部の人達のために大多数を犠牲にしてはならないと言うシン大佐との対立を軸に、両大佐を取り巻く人々のそれぞれの恐怖に対する反応を描いたものだった。
頭の上にある恐怖、これはテロや某国のミサイルなどを暗示し、それに対する人々の反応を描いた物だったのかも知れないが、その結論がそれでも人間は生きていく、と言うのでは少し物足りなく感じた。
幕開きと終幕の群舞は、音楽、照明と相まって迫力があり面白かったが、途中の物語の部分が盛り上がりに欠け淡々と流れてしまった様に思える。これは、シンの諦めにも似た思いから、最後のそれでも生きていくとの思いまでの変化がよく見えなかったことと、せっかくの女性陣達がおとなしすぎたせいの様に感じた。台本のせいだとは思うが、女性達が男達の従属的立場でしかなかった。結局男の理知的な世界を描いた舞台のように思われる。
各役者は、それぞれ芸達者なところを見せ、シン役者の端正な顔立ちとニヒルな雰囲気、トウマ役の役者の落ち着いた演技がよかった。シンの父親役の役者、サーカスのデンスケ役の役者のオーバーアクション気味の演技も良かったがプロデュース的公演のせいか、少し相手役と絡んでいない気がした。女優陣では、博士の妻を演じた役者の死ぬ間際の演技が心を打った。
セットは上手の砂山、下手の室内とうまく構成されていて、照明と相まって奥行きのある立体的で、時間的、空間的広がりを感じさせるものだった。天空に架かる隕石(イワ)は、舞台下手だけでなくバック全体にあった方が圧迫感が有ったのではないだろうか。また、下手奥に会場の壁が見えないよう袖幕は是非欲しかった。<BR> 照明はフォグを利用し、バックサス気味の照明が、色使い、カッターの多用により綺麗で立体的で非常に良かった。
音響は、多少音量の点で中途半端に大きく気になったが、ソースは綺麗で、雫の落ちる音のような音楽は耳に残った。 |
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■頭上には今日も“岩”がとどまって(阿部様)
隕石群が落下したのだという。未曾有の量の。そのために多くの人が死に、大地は砂漠と化した。生き残った人間の社会も大きく変わり、ごく一部のエリートだけが、安全なシェルターに入る権利を持った。そして人々の頭上には、いつ落下するとも知れない、巨大な“岩”が浮かんでいる。そんなある時、ある処での物語である。
任務の途中、消息を断ったシン大佐。同僚の軍人とその部下は、行方不明のシンの探索に出る。シンを探す者はほかにもいる。それはシンの妹と父。ふたりは今、とある農場で働いている。そこは砂漠化した大地でも生育できる作物の研究を重ねる博士と、その病身の妻が営む実験農場。そして意識不明で倒れていたシンを助けたのは、ひとりの踊り子。しがない旅の一座で、妹とともに踊っている。
運命に導かれて人々は農場に集う。それぞれの、生への姿勢をあらわにしながら。とともに、いくつかの愛と死を生みながら。生きようとする意志そのものの愛と死を。
こんな展開を見せる唐津匠の脚本は、“とにかく生きよう。それがどんなかたちであっても。”という力強いメッセージで貫かれている。
唐津の世界はさらに広がる。白くシンプルな舞台装置と巧みな照明は、観る者の想像力に働きかけて自在に変化する。加えて、全員がまとう民族衣装のような長いガウン。独特のリズムを刻む中近東サウンド。それらが渾然一体となって、このSFめいた物語を、シルクロードの寓話のような、どこかなつかしく、人間臭くしている。
役者の身体表現は、魅力的である。冒頭での出演者11名全員による群舞は、観る者を一気に物語の核心へと引き込む。踊り子姉妹による、どこかはかなげなダンスもよい。圧巻は、シン大佐と同僚の対決の場面。多くの人々の生命を救う方法をめぐっての深刻な対立が、同僚の死で終わるこのシーンは、まるで中国武術のような、美しく激しいアクションの中で展開する。
それにひきかえ、身体の延長であるはずのコトバが、なんとも貧困。長い台詞になると、とたんにコトバが力を失い、弱々しく不明瞭になってしまう。そして時に説明的過ぎる場面展開も、少々気になる。
未来への根源的な不安を抱えての生は、私たちすべてに普遍的なこと。その意味で、私たちの頭上にも、“岩”はとどまり続けているのだ。これだけ充実した舞台なのだから、弱点が克服されれば、多くの観客の共感を得ることは確かなこと。再演を期待する。 |
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