劇評
「死神とその弟子」浜松放送劇団
2005年10月30日(日)  浜松市福祉交流センター
渡邊
 来年で創立60周年(!)。長年浜松演劇界を牽引してきた、その歴史をいろいろな意味で感じさせる公演だった。

 明治38年、占い師の井伊加減(いいかげん)のところに「占いが当たらなかった。金を返せ。」と何人も苦情にやってくる。怒鳴られ、暴力も振るわれて自信を無くした加減。村の娘お弓の顔に高貴の相を見出すが、どうせ外れていると思い、自殺をしようとするが失敗。そこに死神が現れる。占いに来た人の寿命を死神に教えてもらうことで「よく当たる占い師」と評判を得た加減。その加減を利用して金儲けを企む者も現れる中、重症を負ったお弓が運ばれてくる。実はお弓は浜松藩のお姫様で、事情によりこの村に里子に出されていたのだが連れ戻されることになり、嫌がって逃げる途中崖から落ちたのだ。

 お弓の寿命を占う加減。以前お弓に叩かれた経験を持つ死神はお弓の枕元に座ってしまう(寿命が尽きる合図)。足元に座るように願う加減は、死神が酔って眠りこけた隙にお弓を寝ている布団ごと半回転させる。目覚めた死神は怒るが、自分を犠牲にしてもお弓を救おうとする加減を見て閻魔大王に対応を委ねる。大王の判断は「お主の弟子にするが良かろう…。」と言うお話し。

 放送劇団らしい重厚な演技の中で、死神役の滑稽なしぐさが笑いを誘う。客席の反応も良い。その客席には高齢者の姿も目立っていた。これはフェスティバルに参加している他劇団では見られないことだ。おそらく長年観続けている固定的な観客なのであろう。この劇団が歴史を重ねてきたゆえに為せることである。このことは心から敬服するが、一方で固定客ではない私にとっては戸惑うことも多かった。

 重厚な演技が軽妙なストーリーには合っていない気がしたし、盛り上がるシーンが淡々と過ぎてしまった感じもした。また、長年劇団を支えた団員が亡くなられたことに対する気持ちは痛いほど理解できるが、カーテンコール時にパンフレットに書かれた追悼コメントと同じ内容を時間をかけて話された時には、その気持ちを共有できないことに多少の居心地の悪さも感じてしまった。

 多くの観客が楽しい時を過ごすことができたことは間違いない。それゆえに、できれば次回は他劇団の公演を志向する観客をも楽しませる舞台を期待したい。
桐山
 ひやっとする話?  劇を見る前の私の印象。何といったって死神がでてくるから。暗い劇なのか?そう思いながら劇を見る。占い師「井伊加減」占いは当たらず。その為に自信も地位も失っていく彼女は自殺を図ろうとした時に一人の死神が参上し話が進んでゆく。

 何だ、ユーモラスな劇じゃん? 井伊加減と死神のテンポのよいやりとり。客席から途中で自然と笑いや手拍子も湧き上がる。井伊ははきはきとした声の女性。死神より貫禄がある。死神も楽しくていい。関西弁が影響しているのもある。これなら子ども達も親しめる死神。子どもにも見せれる。

 でも心から笑っては見れなかった。 この劇のテーマは「死」。死とはやはり重くのしかかる事柄。この劇は明るいタッチで描かれてるので死というものを少しばかり軽々しく扱っているような感もしてしまう。もう少し命の尊さを強くアピールしてほしい。劇のように人は、そんな簡単に死ぬ事はできないし死なせてはならないのだ。

 人間の本性って? この劇で一番に考えさせられた事。やはり金が一番なのか?なぜ人は金ばかりに目がくらむのか?井伊の所へとやって来る客もそうだけど井伊自身も占いを当てて金儲けをしたが為に死神にすがる時がある。

 それに比べて、この劇の「子どもの世界」は実にきれいだ。仲良しの友達と一緒にいるだけで満たされる。子ども達の演技や雰囲気そのものも、どっしりとしている大人のキャストに比べて実にういういしい。

 自分だけ利益を得る事も考えずに他人の事を思いやって人間になろう!と思う人が増えていけば憎み合いのない世界になるのに。と私なりに解釈した、この劇のメッセージ。